求道俳句で南無アッバ

余白の風

二〇一五年七月号

第二一五号

奇数月二〇日発行

余白こと平田栄一

俳句や短歌、短詩をつくりながら、日本のキリスト教を模索します

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評

片岡惇(名古屋)

み摂理のマニラに着きし夏の雨

○抱きつく子の優しき力汗光る

喜びのろうそく揺らし青嵐

聖霊が子らを包んで弾ける汗

飢餓の子らに奇跡を祈る聖母月

 

 四年前、訪れたフィリピンで、車窓から路上生活の子どもたちを目にし、痛む心を持って帰国。NPO・ICANの若いスタッフが、私の思いを「シェルター・子どもの家」として実現化に。多くの困難を超えて、祝別式までこぎ着け、ここに至りました。子どもたちの希望・命の家。子どもたちを支えている支援者・スタッフ達・五十名の子どもたちの笑顔、涙、ハグ。神様の「愛」が、ここに皆を集めてくれました。資金不足で完成されていません。一刻も早く、「子どもの家」がその役割を果たすことが出来ますように。(五月四日〜六日)

 

*井上神学の「悲愛(アガペー)」は、特に「共に生きる」「共に苦しむ」ということを強調して、「慈悲」の「悲」という字を使っています。その根底にあるのが、片岡さんのような「痛む心」です。その共に痛む心が種となって、成長していった実りが「子どもの家」――神の国の完成を祈ります。

F・井上(八王子)

主語からの脱皮に軽くなる心

○蝸牛 聖句を抱いているらしい

当然とある日常の南無アッバ

 

*@〜Bへ連作として読める。自己中心の思いが遠のいていくほどに、心に堆積するのは、アッバの御言葉。そうした経験は、特別なものではない。いかなる「日常」にもあるチャンス。

 

  魚住るみ子(練馬)

(あけ)の明星ほのけく消えゆくたまゆらを南無アッバなむ胸に手を当つ

庭の面に日差し明るし 南無アッバ (ひと)日の始め朝餉をかこむ

 

*「暁」「朝」のひと時は、一日の黄金の時。私も還暦近くなって、そう思うようになりました。休みの日はほとんど教会に詣でます。心の、一生の整理には、朝が一番。

 

佐藤淡丘(豊田)

○雨蛙野池を伝ひ踏みまよふ

葉桜を抜けて首筋蒼くなる

夏つばめ己が影なる池しずか

手を容れて祓い清めし木下闇

満天の星の水田に佇ちつくす

 

  水のいのち

 野池の水は、けふも平らに美しい。

 人間の体の大半は、水でできているだけに、親和力が働くのだろうか、寄れば溶け込むやうにして和む。

 水・大地・大空・すべて神のもの。

 南無アッバを唱え、心から全能の神を賛美するのです。南無アッバ、南無アッバ。

 

*自然の語りかけは、音も含めて全身的なもの。五感、いや霊を含めて六感に響く。「南無」の唱和は、己のものにあらず。山川草木万物より湧き出でんとす。

 

西川珪子(一宮)

◎紫陽花の色に行く末ゆだねけり

人住まぬ家に紫らんの咲き乱れ

ためらはずおたまじやくしの手足伸ぶ

祈りとは心の叫び藤の蔓

たんぽぽの綿毛見送る祈りの眼

 

*「物忘れ」の不安に、「神様に一つずつお返ししていくのだ」というお気持ちで」日々祈られている作者。まことアッバと人々への奉仕なり。

赤松久子(高知)

土佐の海おみ風さまの歌うたふ

サマリアの女も願ふ主の泉

○蛸なども食べてよろしと聖ペトロ

冷麦や空席の友想はるる

吹く風に耳傾くる祈りかな

 

*B民族的ユダヤ教から世界的キリスト教へ、宗教と文化ということを考える。また、新約聖書の成立過程などを見ると、初期キリスト教がいかに多様であったかなども知られてくる。

平田栄一(蓮田)

梅雨出水鞭もてる主の宮清め

いちじくの木下に座するナタナエル

寄贈誌より

        「日矢」六〇四号・新堀邦司

雛飾る母亡くしたる子の泣けり

天界にふるさとのあり鳥帰る

ホワイトデー妻には春の花供へ

◎春風や「元気だして」と妻の声

 

*亡くなられた奥様との対話は続く。C死者に励まされる生者のリアリティ。井上師が亡くなった時も、そして今も、生前以上に身近に感じる、と多くの人が口々に言う。

 

『風の道』・魚住るみ子

大粒の涙は空の雲となり碧きはたてへとけ入らむとす

ほしいままに吹き分け来ると見ゆる風光りて薫る(プネウマ)の道

平田講座要約(第37回)

2013・6・22 テキスト『心の琴線に触れるイエス』

これまでお話したことから、いずれにしろ、初穂理論は1+1=2という合理主義的=父性的=律法主義的=行為義認的な考えではなく、仲間の一人の功績に皆があずかるという発想。そんな調子がいい、うまい話はない、と思ってしまうのは、「福音」より「倫理」を優先してしようとする、近代の道徳主義的教育論に馴染んだ人間観から来る、私たちの不幸かもしれません。

こういう、もともとあった有難い話が、皮相な勧善懲悪論になってしまった例として、「天網恢々疎にして漏らさず」とか「情けは人のためならず」などがありますね。神仏の有難さより、人間は厳しく躾けるべきだ、というニュアンスにどんどん変わってしまったんですね。

ということで、初穂理論は、「福音」より「倫理」や「教育」を優先してしまう合理主義ではなく、非合理的――1+1=2ではない「福音」の有難さ――パウロの信仰義認――神を神とも思わない罪人をも無条件に受け入れてくださるアッバ――につながります。

初穂――非合理――恵み――福音――信仰義認論――母性――アッバ

p・47

「初穂」とは、その季節にはじめて収穫した物の意です。その年最初の実りを神に捧げることによって、その後に続く収穫物もすべて聖なるものとなるように、イエスが人類で最初の人として神の懐に迎え入れられたからには、すべての人が神の懐に迎え入れられるのだ、というのが「初穂理論」なのです。井上神父はこの「初穂理論」は、パウロの「キリストの体」(一コリント一二章)という考え方をふまえており、「何といっても比較的に一番抵抗なく受け入れられるのではないだろうか」と述べています。

「キリストの体」論をどう「ふまえて」いるのか。当の『コリントの信徒への手紙一』一二章によりますと、私たち一人一人はお互いに支え合い、助け合う相互依存の関係存在であり、その社会的関係はひとつの体=キリストに統合される、という発想が、いわゆる「キリストの体」論です。それは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(二六節)というように、この関係性を重視し「ふまえ」るから、一人の人(イエス)の功績が、私たち他者にも及ぶという「初穂」理論につながるのです。

「初穂」ひろくは「初物」は古来世界中のほぼあらゆる地域で、その収穫を司ると信じられていたそれぞれの神に、感謝、予祝の意味をこめてささげられていたといいます。旧約世界(出エジプト二三・一六など)やアメリカ・インディアン、アイヌなどでもこうした祭が重視されていました(東京大学出版会『宗教学事典』参照)。このように、「初穂」的発想が地域や時代をこえた世界性・普遍性を持っていることから考えても、井上神父の指摘は当を得たものと思われます。日本の古典でも「早穂(はやほ)」「荷前(のさき)」「最華(さいか)」などの文字をあてて「ハツホ」と読ませています。また新嘗祭・抜穂(ぬいぼ)祭・初穂祭・穂掛けなど、さまざまな初穂の儀礼が行われてきました。

「荷前(のさき)」は万葉集に出てきます。「荷前の幣(へい)」ともいい、諸国からの貢ぎ物として届けられた初穂を年末の吉日に天皇および外戚の墓(十陵八墓)および伊勢神宮に献ずる儀式、およびその貢ぎ物のことです。

南無アッバの集い&平田講座、於:四谷ニコラバレ、日時7/25(土)13時半、8/22(土)同

――――「余白の風」入会案内―――――

どなたでも参加できます。購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日 *お問合せはサイドバーのメールにてお願いします。